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無窮会の沿革〜創立の精神と歴史〜

 本会が会名と組織及び人事を正式に整えて発足したのは、大正4年春、明治期での神道・国学分野での大家井上yorikuni博士の没後に遺された全蔵書を平沼騏一郎男爵が私財により購入し、それ迄所有していた蔵書と共に寄附し無窮会と名付けて設立したことに始まった。

 尚、設立当初の理事及び監事は次の通り。理事長:平沼騏一郎、理事:秋月左都夫・二木謙三・加藤敬三郎・樺山資英、監事:中川友二郎・小倉正恒・中川小十郎。

 その後昭和20年に至るまでのたゆまざる貴重図書整備の努力、特に世に知られた国学・漢学両分野の諸大家が生涯をかけて蒐集せられた、それぞれの尨大な蔵書の受け入れにより、創立当初の3万5千冊余はいつか現今の25、6万冊に増え、内容も神道・国学・国史・民俗学・国文学・国語・漢学――特に儒教関係や日・中両国の古今にわたる漢文学など、謂わゆる東洋学の全領域に及ぶおびただしい基本的諸古典と、その注釈書の類や、近世以降の専門的研究の諸文献などを網羅するに至り、各種の木版・活版の外、筆者による希覯資料も少なからず、更に部分的ながら明治期以降の政治・司法・行政制度などから風俗、世相の推移に及ぶ、近代日本の国民思想・文化の形成、発展の跡を徴すべきさまざまな原初的文献の類をも含み、わが国と東アジア世界に亘っての貴重な文献の一大コレクションの場となった。

 いまは高層ビルの林立する熱鬧のちまた、明治通り寄りの新宿・歌舞伎町の東端(旧称西大久保)一帯が、まだ雑木林と田畠のみどりに掩われていた明治時代の後期、その一角の平沼騏一郎邸を足場として、世界の将来のなかでの日本の運命を語り合い、憂い合うグループがあった。

その主要な顔ぶれは――

平沼騏一郎

第二次西園寺内閣の司法次官、大正元年検事総長。
大正12年9月の山本内閣での司法大臣。
のち枢密院副議長・議長を経て、昭和14年1月に内閣総理大臣を拝命。
終戦の際の枢密院議長。男爵、法学博士。
その間現職のまま明治31年日本大学理事、同大学学長、大正12年第二代総長。大東文化学院初代総長、昭和27年(1952)死去。85歳。

秋月左都夫 外交界の長老、駐オーストリア大使
北条時敬 のちの東北帝国大学総長・学習院長
織田小覺 漢学者 前田公爵家学事顧問
早川千吉郎 三井銀行頭取
河村善益 東京控訴院検事長
土岐こう 帝国製麻株式会社常務取締役
井上友一 東京府知事
二木謙三 東京帝国大学医学部教授、医学博士
大隈重信、堀維孝、清水正健、加藤虎之亮、林泰輔、三宅少太郎

 いずれも洋学の新知識に合せて、豊かな漢学の教養を身につけた、教育界・学界・官界・財界などにわたっての、トップ・レベルの人びとであった。

 時代はまさに日露戦争の後、勝利がもたらした緊張感からの解放による一種の放心状態が拡がり、政治上での歪みや社会的・経済的諸矛盾の露呈などが交錯して、民心の動揺と浮薄化、険悪化がきざし、対外的摩擦の新しい発生も加わって、くにの歩みの現実は数々の困難さに満たされる状況にあった。

 平沼邸に集った知識人たちは、それを克服する道を、東洋思潮の核心ともいえる、孔子の興した儒教が説く修己・治人―道義に本づく平和な理想社会をめざし、そのために欠かせない個々人の道徳の養成を前提とする―の教学の中に、新たに探ろうとした。特に謂わゆる日本的儒教の精神をよりどころとして、同時代の弊害が何であるかを見究め、精神・文化の側面から民族精神の支柱となって、国家の健全な発展に尽くそうとする志向を強め、一流の学者を招聘して『論語』や『弘道館記述義』など諸古典の講習、研究が続けられていたと伝えられている。

 大正4(1915)年の春、謂わゆる平田学派を継承する神道・国学の大家、井上yorikuni博士の積年の努力の結晶である蔵書3万5千余冊が、博士の長逝とともに散逸するのを憂えた平沼グループは、この一大コレクション(神習文庫)の受入れと管理、並びにその活用かたを協議して、組織と人事を正式に決め”無窮”の会名を定め本会の設立となった。


 設立後、運営開始に当り、会長に秋月が推され、実質上の中心である平沼が相談役に就いたのは、平沼の検事総長という現職への配慮のためと伝えられる。

 そして新たに専任の調査員制を設け、平沼と異体同心的関係にあった織田小覚が調査主任となって「調査研究項目概略十二条」(神習文庫図書目録末尾に附載)を定めて、本会の素志に即しての積極的な図書の活用に着手した。

 新しい調査員には、水戸学最後の学者といわれる清水正健、学習院にも出講せられた堀維孝、のちの文学博士加藤虎之亮の三氏依嘱せられ、清水調査員の尨大な『荘園資料』(二巻、昭和41年 角川書店再刊)、 『孝文編年録』(150冊)、加藤調査員の『支那の貴族教育』、『春秋内外伝に見れた節義・事例』の如き貴重な成果が集積された。

 ただし折角の調査員制度も、財政上の理由からして数年にして停止するの已むなきに至った(現行の特別調査員制度は、その一端をうけつぐもの。)

 他方、神習文庫の受け入れに始まる和漢図書の蒐集は、そのことが即ち本会の使命だと見誤られるほど盛んに続行せられ、特に、既に会長職に在った平沼はその為に資を捐てるを吝まず、終戦のころ既に21、2万冊に達した。

 この古典籍を自由に駆使して”日本の道”を闡明し、その成果を掲げて、思想・教育・社会・政治など各方面にわたる歪みを正そうとする倫理的・経世的志向こそ本会の使命そのものとして、遠く明治期に遡っての平沼グループの諸先覚のこころに淵源する、揺るがざる信条であったと理解せられる。

 これより先、大正の中ごろ、平沼会長の学事顧問格であった牧野謙次郎(早稲田大学教授、のち同学高等師範部長)を中心とする、謂わゆる漢学復興運動は、当時の衆議院議長奥 繁三郎・貴族院議長大木遠吉らを初め、東京・京都両帝大や私学系の漢学関係諸教授、学界、政界などの幅広い協力を得るようになり、三ヵ年にわたる衆議院での決議、貴族院での建議を経て国庫からの支出が決り、”碩学鴻儒”の養成をめざす(漢学専修)専門学校としての大東文化学院(本科・高等科各三箇年制)が開設せられ、平沼が初代総長に、牧野が同教務管理(教頭)に就任した。

 が、大正末期に至って内紛を生じ、両氏らは一斉にその職を退くことになった。

 昭和時代に入って、永らく枢密院副議長の職に在った平沼は遂に内閣総理大臣の大任をも帯び、ひきつづき無任所相・内務大臣などを歴任して国政上での重鎮と目され、終戦の際は再度枢密院議長の重責を荷ったのであったが、本会も昭和14年2月には財団法人の認可があり、相当額の基金も生れ、昭和15年1月には、新たに東洋文化研究所が創設せられて、会の創設当初からの一大悲願であった、憂世の諸先学の遺志を承け嗣いで古典籍に基づく学識を十二分に養い、もって国家の健全な発展に貢献し得べき後継者の育成が、初めて可能となって、新しく研究所一棟と新書庫とが落成した。

 更に、昭和18年には、次第に艱難さを増す戦局のなかで、大正十年五月に設立された外郭的学術団体として月刊『東洋文化』誌を機関雑誌にもつ「東洋文化学会」(初代会長は大隈重信二代目が平沼、理事・評議員に朝野の諸学者を網羅。) を合併し、名実共に全国的な東洋学術研究機関としての組織を鞏固をならしめたのであった。

 こうした経緯を重ねた本会が、終戦に至る三十年間に実施した事業の主たるものをあげてみよう。

  1. 「神習文庫」を初め、国典・漢籍の双方にわたって夥しい貴重資料を含む一大コレクションとしての、専門図書館の開設、経営。

  2. 次の時代を担うべき学究的人材の育成をめざす教育機関の開設と経営。(昭和15年1月、東洋文化研究所。なお大東文化学院建学前後の、本会との関係については前述の通り。)

  3. 調査員制度の実施による、国史・国学・儒学などの諸古典ならびに、その歴史についての研究、調査。

  4. 前項による諸業績による公刊。(前項参照)。

  5. 儒学系の諸大家を招聘しての、古典の公開講義、その真価の解明。(三宅真軒翁による『詩経』と後期水戸学の碩学、会沢正志斎の著書『下学邇言』、林泰輔博士による『周禮』と『大学衍義補』の講義。織田小覚調査主任による『近思録』会読など。)

  6. 志を同じくする諸有識者の業績発表機関をも兼ね、時弊の匡正をめざす言論機関として月刊雑誌『東洋文化』の編輯、発行。(毎号約100項、昭和20年7月1日付、第234号まで継続。)

 以上の通り、戦前三十年余にわたっての本会の諸事業は、純粋な民間団体としては過重とも言えるスケールの大きさと内容の精密さとを併せ具えたものであった。

 更に、財団法人設置に要した基金のことをも含め、想像に絶する莫大な経費がつぎこまれたのであったが、こうした活動がすべて、平沼を柱とする民間諸有志の、真に世のため国家のためという使命感と熱意とによる浄財をもって賄われた事実は、本会につながる後継者すべてにとって、尤も脳裏に刻まれ、語りつがれるべきものといえるのではないだろうか。

 尚、歴代理事長及び理事長代行者名は、平沼騏一郎、秋月左都夫、川田瑞穂、清水澄代、石黒武重、加藤虎之亮、清田清、小倉正恒、平沼恭四郎である。

 第二次大戦中の数次に及んだ大空襲にも、二棟の新築部分だけは辛うじて戦火を免れたが、基本財産の全面的喪失と敗戦後の天井知らずのインフレとのため本会の財政は致命的損害を蒙り、人事面での甚だしい痛手と相俟って、その後十数年にわたる雌伏の苦渋は、言葉に尽くし難く、土地の一部処分や重複図書の放出なども、焼け石に水の譬えさながらであり、自然、本会の存立を遶るさまざまな論議も、会の内外に渦巻く状況で、会所有の蔵書全部の買い取りや共同経営など援助申込先は数多く、交渉先は国会図書館、明治神宮、國學院大学、早稲田大学、慶應義塾大学、大東文化大学、米国財団などであったが、いずれも条件面等で不調に終わった。

 ただし、昭和30年に始まった小倉後援会の活動が緒に就いて、その努力の結晶である浄財700万円也が基本財産に編入せられ、その信託預金利子が、年数回確実に運用資金に活用できるようになった昭和30年度からは、多少落着きをとり戻し、小規模ながら正常な予算が組めるようになった。

 そして、本会の存立に就いての諸論議も次第に一本の流れとなって、何よりも自主独立の大本は揺がさなかった。その後次第に俗悪化する環境の変化は、貴重図書の保管上の不安を醸す状態ともなったため、交通至便な、且つは発祥の地でもある新宿・西大久保の現在場所に耐火建築をもって再建しようとの試案を捨てて、近郊に新天地をもとめて移築し、新たなる発展を期することとなったのが、実に昭和39年のことであった。

 昭和41(1966)年12月20日、財団法人無窮会は、発足した大正4(1915)年以来の所在地であった東京都新宿区西大久保1丁目432番地を離れ、新宿駅から小田急電車で40分余りの町田市玉川学園8丁目の、雑木林に囲まれた清閑な小邱の上に新築された近代建築に、新しい安定による発展をめざして移転し、現在に至っているが、この間につき特筆すべき事を次に述べる。

 第二次大戦の戦前・戦後に於いて終生独身を通し厳格威厳であった平沼騏一郎が心から頼りにし相談して居たのは昭和11年に結婚した平沼恭四郎・節子夫妻であった。

 節子夫人談によれば、平沼騏一郎が戦前親交の深かったグルー米国務長官に一生懸命働きかけて何とか戦争になるのを食い止めようと努力したこと。終戦の御前会議の折は枢密院議長として鈴木首相、東郷外相と共に軍部側三名の徹底抗戦に反対し本土決戦を避け国体維持を条件に戦争終結のご聖断を仰ぎ終戦を迎えたが、これが軍部の一部に漏れて8月15日の早朝、反乱軍により西大久保の自宅を襲撃され炎上したこと。その際、渡り廊下で繋がっていた別棟の無窮会に避難した平沼騏一郎に反乱軍は気づかず助かったこと。平沼騏一郎の証人として東京裁判の証言台に節子夫人が女性として初めて立ち、種々証言したこと。その他、無窮会創設以来の数々の秘話を全て承知して居られたが残念ながら平成元年に逝去したため聞くことができなくなった。

 平沼恭四郎は昭和25年8月、本会の理事に就任し、昭和35年8月理事長に就任。平成3年11月、83歳で逝去されるまで四十有余年間(内、三十有余年理事長職)の長きに亘り無窮会が一番困難な時に本会の振興発展のために献身された。その功績は前述のに述べられた如くであるが、財政の困難な対策として理事長以下全理事を無給として現在に至らしめたこと、各大学等々から申し入れあった買い取り条件対策に無窮会の存立を自主独立に導いたこと、西大久保より玉川学園へ移転させたことの他、神田書店街に盗まれた大量の無窮会蔵書を多額の私財を投げ出して買い戻したこと、毎年多額の寄附と玉川学園へ移転の際、多量の家具・什器・備品を寄贈されたこと等々、公私に亘り守りに徹し、献身的な奉仕に明け暮れ、どうにか無窮会の目的及び事業の継続を果たされ、東洋文化振興の灯を消すことなく、為に胃癌と肝臓癌を患い、筧常務理事(娘婿。理事長。)に後事を宜しく頼むと言い残して平成3年秋逝去され、正に無窮会のために生涯を捧げられたと言っても過言ではないと言われている。

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